はてワに限らず仮想モノをやる時間が長くなると, 生の世界の実感が変わってくる.
そこにある壁, そこにある地面, そこにいる人, 生の世界の事物それぞれのあり方がオリジナルで動かし難いものではなく, 再構成された情報に過ぎないもののように見えてくる.
何て事はない. 実際今までもどんな物も再構成しながら見ていたではないか. 壁を見るときいつもその質感を見ていただろうか?人を見るとき, いつも髪の毛のひとつひとつを見ていただろうか?地面の硬さやわらかさを意識していた時間はどれくらいだったろうか? そうだ. 両者に本質的な差はない. ただ, 体験を構成するものの生の世界が持つ"絶対感"が揺らいでいるだけに過ぎないのではないか.
いや違う. 何かを見落している.
確かに地面の硬さは感じていた. 確かに顔のしわひとつひとつが見えていた. 確かにコンクリートの抵抗感を, 表面のざらつきを感じていた. 意識に登らなかっただけだ. 体験は意識には登らない情報によっても形づくられていたはずだ. でなければ, どうして画家でない人が精密な絵になまなましさを感じる事ができるだろう. 意識の世界は仮想世界と変わらない. では何故, 仮想世界の体験が生の世界の見え方を変えるのだろうか? もし何か仮想世界と生の世界がさほど遠くない事によるものと言う考えかたが間違っていなかったら, 現実の見方を変える仮想モノにはより生の世界に近い体験を形づくるなにものかがあるはずだ.